鏡をよく見て

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遊郭こぼれ話 ②遊郭の構造としきたり

原稿終わったからってめっちゃ日記書いてて自分でも笑います。

たぶん夏コミの当落出たらまた潜るんだろうなー……って思うんで今のうちに書けるだけ(´∀`)

今回は吉原遊郭の構造や独自のルールを解説したいと思います。

続きからどぞ!

吉原遊廓の構造

新吉原に移転後、吉原の全体図はこんな感じになってました。あっ上が南です!

本の中で新町やら江戸町やら揚屋町やら出てきたんですけど、なんのこっちゃって感じでしたよね…

四方を堀で囲まれていて、誰もが唯一の出入口、大門からしか出入りできませんでした。

廓の中は「五丁町」という区分で区切られ、これは当初江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の5つの町で始まったことに由来します。

のちにここに揚屋町と伏見町が加わりました。

南北に走るメインストリートは「仲の町」と呼ばれ、ここには季節を先取りした様々な木々が植えられたそうです。

ただし人工的に植えるものなので、時期が過ぎれば根こそぎ引っこ抜いて、また新しい花や木を植えたとか。

大門を入ってまず目に入るのがこの仲の町なので、外の世界と違ってここは夢の国なんだよーっていうのを演出するためにも、華やかな目抜き通りは重要だったんですね。

仲の町の両側に軒を連ねるのは「引手茶屋」と呼ばれるものです。これは後で解説します。

東側と西側に並んでいたのは「切見世」といわれる最低ランクの遊郭で、ここにいる遊女は「鉄砲女郎」とも呼ばれていました。

「当たれば死ぬ」ということなんですけど、まぁ何に当たるかっていったら性病です…。

遊女の間には梅毒が蔓延していることが多く、特にこの切見世の界隈はひどかったようです。

ここで働いていたのは、もともと市中で娼婦をしていたのが幕府の取り締まりで捕まり、郭内に押し込まれた者や、見世で働いていて年季が明けたけれども、行き場所がない遊女などが身を落とした……などという人たちです。

華やかな見世とは違い、この東西の両側は吉原の「苦界」の一面を見せていました。

上記のように梅毒が流行っていたこともあり、遊女はのきなみ短命だったようです。

遊女が死ぬと、廓内にある浄閑寺というお寺に葬られました。

……といっても、夜中にぽーいって門前に放り込んで終わりです。遺体は無縁仏として処理されました。

そのせいで浄閑寺は「投げ込み寺」とも呼ばれていたそうです。

南東には九郎助稲荷という神社がありました。

普通稲荷というと商売の神様なんですけど、もうとにかくなんでも祈ろうぜ!ってことで、商売繁盛から恋愛祈願まで、遊女はここに足しげく通ったそうです。

死んだらお墓もない自分たちの身の上を知りつつ、遊女たちは神様に祈ったんですね…

「自分なんて死んだらどうせ寺に投げ込まれて終わりだ」~みたいなセリフも銀時に言わせたかったんですけどね!入れれませんでした!

廓内には遊郭だけじゃなく、商店街のようなところもありました。それが「揚屋町」です。高杉と銀時が最初に出会ったとこです^▽^

幕末の1846年の記録によれば、吉原内の人口は8700人以上で、そのうち遊女は約4000人。てことは、半分以上はそこで働く人々だったということです。

そうなれば廓内で衣食住をそろえる必要性も出てくるわけで、この揚屋町でほとんどの物をそろえることができました。

吉原で商売をして暮らしてる者もいたり、とにかく吉原というのは、それ全体がひとつの町のような形態をとっていたわけですね。

銀時の見世の「万事屋」は京町二丁目(新町)にあるっていう設定なんですけど、

本の中で銀時が、「こんな新町の小見世より江戸町で鳳凰でも見てた方が~」って言うのは、

あれは「鳳凰の 壁に格子は 面白し」っていう川柳からきてまして。

江戸町にあるような大見世は、見世の外から店内の壁にかかれた鳳凰を見ることしかできない、でもそれだけで充分だ って意味の歌なんですけど

つまり、お前金持ちなんだから、こんな安い見世で自分の相手してるより高級店行けよ!っていう銀時の嫌味なわけですね…

解説しないと分かんないセリフって…

次に「引手茶屋」についてです。

引手茶屋

仲の町の両側に並んでいたのが引手茶屋というもので、これは見世と客の仲介をしていたところです。

図の通りなんですが、大見世に登楼するには、この引手茶屋の仲介は必須でした。

引手茶屋は高級遊女の待機場所のようなもので、ここで客を待つことを「仲の町張り」と呼びました。

引手茶屋は高級遊女のショーウィンドウだったわけですね。

いわゆる「花魁道中」というのは、引手茶屋で待っている客を遊女が迎えに行く道中、そして客と一緒に見世に登楼する道中のことを指します。

禿が何人も随行したり、傘をさしたり、とにかく華やかでした。

だからつまり……私が本の中でかいたやつはインチキ花魁道中なんです…^0^

本来の花魁道中は客を「迎えに行く」ためのものであって、あの銀時は「見送りに行く」だから、正反対なわけです…

時間も朝だしね!本当の花魁道中はだいたい夕方くらいでした。

じゃあ「迎えに行く」っていう本当の意味での花魁道中はどこかというと、最後の最後の場面です。

綺麗に着飾ってないけど、銀時一人だけど、ちゃんと「迎えに行く」ことができたね っていう……。

最後に床入りまでの順序についてです。

床入れ

銀時とにゃんにゃんするためには、初会!裏!床入り!のスリーステップが必要でした。

ただしこれは元吉原時代のめんどくさい手順で、新吉原の時代にはあんまり行われなくなったようです。

だから銀時が「初会で手出すのかよ」っていうのに対し、高杉が「今どきそんなこと守る奴いない」って返すんですね~

銀時意外と古風で純情なんです/////

以上遊郭内の構造としきたりについてでした!

次は本の中に出てきた色んな設備や小物について解説できたらいいなぁって思います^▽^