遊郭こぼれ話 ③本編に出てきた小ネタ
おっと気付いたら6月だ……
間が空いちゃったんですけど、遊郭のうんちくの続きです。
今回は本の中に出てきた色んなことを解説しますーー
まず「まがき」と階段のことについてです。
「まがき」というのは、要は格子のことです。
銀時の見世の「万事屋」は小見世なので、一番下の惣半まがきですね。
本の中でもちゃんとそうしてます・▽・bbb
張見世には12:00~16:00頃まで営業する「昼見世」と、18:00頃から営業する「夜見世」がありました。
昼見世の客の多くは門限に厳しい参勤交代の武士や、夜に忙しくなる料亭の番頭などでしたが、冷やかしの客も多かったようです。
なので遊女にとっては夜見世が本番で、昼見世はなまけている遊女もけっこういたとか。
昼見世が終わると遅い昼食をとり、夜見世にむけて念入りに掃除をしたりします。
18:00頃になると、「清掻(すががき)」という歌のない三味線オンリーのお囃子が聞こえてきて、それが夜見世開始の合図です。
本の中だとこのシーンです↓
(清掻のつもりだった)
それから0:00頃までが見世の営業時間で、あとは泊り客と遊女がお楽しみ♥
泊まりの客が帰るのは4:00頃で、遊女は見世の階段あたりや、大門まで見送りました。
遊女の就寝時間はだいたい5:00~10:00頃までで、それから起きて入浴や化粧を済ませ、12:00からまた昼見世……と、こういう一日を送っていたようです。
日の出と共に起床、20:00くらいに就寝、という江戸っ子とはだいぶずれた生活を送っていました。(ていうか私の生活リズムがもろに吉原……)
それと、遊郭の階段について。こういう感じに配置されていたそうです。
本の中で思いっきり間違えました・▽・bbb
途中であって思ったけど直せませんでしたーーーーえへ
見世の一階は通りに面した張見世のスペースが唯一の営業区域で、あとは下級遊女やスタッフの生活空間でした。
二階には高級遊女の座敷や大部屋がズラリと並び、いわば舞台裏である一階とは違って、こっちが表舞台だったわけですね。
次に懐紙と天紅のことについてです。
懐紙かくとめっちゃ遊女!!って感じがするんで、ずっと銀時の懐に突っ込んでました……^▽^
遊女が懐紙くわえるっていう描写がめっちゃ色っぽかったんですけど、本の中でかけなかったです……ので今かく……。
天紅はお話の最後の方に出てきたんですけど、天紅っていうのは本来遊女から客に送る手紙のことなんです。
なので、あえて高杉から銀時に天紅を送った……というのは、出会ってから一度も文を送らなかった銀時に対する、高杉なりの意趣返しの意味でもあります。
あれ手紙の上のとこにトーン貼るの絶対忘れたらアカン……ってめっちゃ気を付けてました……じゃないと天紅じゃなくなる……
最後に「見返り柳」のことについてです。
本の中では「見返り桜」として大門の内側にある桜の木、だったんですけど、実際にあったものは吉原の外にある柳の木、でした。
当時、吉原へ行くには三通りの方法がありました。舟で大川(現在の隅田川)を下る、籠を使う、徒歩で行く、の三通りです。
吉原の前を流れているのは「山谷堀」という川で、ここは狭かったので舟は入れなかったようです。なので、舟の客も結局は待乳山の辺りで降り、籠か、徒歩で日本堤を進みました。
舟にしても籠にしてもとてもお金がかかったので、金持ちでもなければ吉原までは歩いて向かうのが普通でした。
また、ストレートに吉原に行くのは「粋」じゃないとされ、客ははやる気持ちを抑えて色んなところに寄り道したそうです。
籠に乗っている途中で籠を待たせて一服、舟を降りて一服、五十間道の茶屋で一服……などなど。
料理屋や船宿でくつろいでから、というのがベストなスタイルで、こうした休憩所のことを「中継ぎ」と呼びました。とにかく余裕しゃくしゃくなところを見せるのが江戸っ子だったってことですね。
たぶん高杉もめっちゃムラムラした気持ちを抑えてお茶飲んでた……はず……。
ちなみに五十間道に並ぶ外茶屋では「吉原細見」というガイドブックが売られていました。
吉原細見は吉原通いに欠かせない必須アイテムで、廓内のマップから見世の名前、格付け、遊女のリストや揚げ代まで実用情報が満載の書です。
考案者は吉原生まれの吉原育ちである「蔦屋重三郎」という人で、享保元年(1716)に初版が発行されてから、爆発的な人気を誇りました。
彼は当時無名だった葛飾北斎や東洲斎写楽、喜多川歌麿などを発掘し、江戸の文化プロデューサー的な役割も果たしました。
銀時が吉原細見に載ってたらどんな感じかな…… 色が珍しく目を引くが性格は最悪。愛想がなく教養もイマイチ。ただしツンデレ。揚げ代はお手頃……みたいな感じですかね。
今回はこれでおしまいです。次が最後になるかなーと思います!